それは、何よりもひっそりと強く馨る、彼女の香り。






crimson perfume







硬いコンクリートに手を突いて、なんとか上体を起き上がらせたところで、ぎしりと体に歪みを感じた。
本来ならば、この程度でダメージを負うようなことはないが、時が悪かった。
先刻の魔人との戦いでボロボロに破壊されていた体細胞が、更なる衝撃に悲鳴を上げている。

視線の先には、拳銃を構えた、まるで細胞を他人から他人へさせる途中の自分の様に、皮が捻じれ皺が寄り、常人ならばありえない角度に口角を上げて奇妙な笑みを浮かべる、眼鏡の男が、居る。

その拳銃で打ち抜いたのは、自分ではない。
落下したヘリの操縦席に座っていた、腹心。
ようやく起った出来事を脳細胞が整理し終えたところで、弾かれたように、そちらに目を向けた。

コンクリートの上、ヘリの残骸に埋もれるように、若い女が倒れている。
両目は半開きのまま虚空を見つめて、それは、万に一つも助かろうはずもなかった。
「さほど高度も上がっていない状態からヘリが落下した」、その程度ならば話は別だったかもしれない。
しかし、ヘリが落下したのは何も整備不良だとか、故障の類ではなく、単純に、操縦手を失ったからである。
操縦手であった彼女が、その操縦桿から手を離さざるを得ない状況に陥ったのは、その頭蓋骨を「撃ち抜かれた」からだ。
「脳を撃ち抜かれた」後に「ヘリの残骸の下敷きになった」。
もしもそれが、自分やあの魔人であったならば、生き残ることも可能だっただろう(むしろ、生き残るのが当然だ)。
けれど、今、その状況にあるのは、自分ではない。
過去にテロ行為を行っていた経歴があったとしても、「細胞が変異し続ける化け物」の傍に付き添っていようとも、「謎を食らう魔人」を目の前にして動じない精神があったとしても、彼女の肉体は、「まともな人間」のそれだ。
「まともな人間」が、こんな状況に置かれればどうなるか。
考えるまでもない。
今現在、彼女の体中の細胞の殆どは、その活動を停止しているだろう。
息をしているか否かを確認するまでもない。
こめかみに空いた穴から流れ続ける赤い液体が、なによりの証拠だった。


眼鏡の男が、何かを言っている。


「飛行機落としのイミナ」



聞きなれない名だった。
誰だ、それは。
誰のことを言っているんだろう。
自分と長く連れ添っていたのは、彼女だけだ。
だとすればそれは、彼女のことなのだろうか。
そういえば、初めて会ったとき、彼女には何か別の名があったはずだ。
それを言っているのだろうか。
確かに、そんな音の響きだった、様な気が、する。

そうだ、あの時は、飛行機に乗って、彼女の隣に座って。
一体、自分はあの時、どんな人間になっていただろうか。
どんな人物として、彼女と出会ったのだろうか。
思い出せない。
思い出せない。
思い出せない。
思い出せない。



『――――――ーパスポートを、見ればいいのでは?』



そうだ。
あの時も、思い出せなかったんだ。
それで、彼女が、教えてくれた。



何も見ていないような、何事にも揺るがないような両目で、世界を見つめる彼女は。
こうなってみれば、何もみていないわけでも、揺るがないわけでもなかったのだ。
その両目は開かれたまま、何の情報も脳に供給することのない、ただ、風景を映し出す鏡としての役割しか担っていない。
二つの鏡に、眼鏡の男が、自らの顔の皮を脱ぎ捨てるその光景が、映っていた。
鏡に映った男は、自身の笑みで、何事にも揺るがない絶対的な悪の香りで、笑う。


「名もない、我が息子よ」





煙、オイル、血液、硝煙、金属。
風の吹き付ける屋上に、消されることなく蔓延する生暖かい空気の中で、



一際馨るは、彼女の紅い香り。